ぼくはべんきょうができない

「学校の勉強としての学問」は苦手ですが
「趣味として楽しむ学問」は大好きです。


なにが違うんだろうって思ったら、
「〇がもらえる正解がある」のが学校の勉強としての学問で、
「正解があるわけじゃなくて、考える楽しみがある」のが
趣味として楽しむ学問ではないかと。


たとえば・・・なんですが、

小野小町の
「花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに」
という、百人一首にも選ばれた歌があるのですが、
これは学校では小町が自分の美しさが褪せていったことを
読んだ歌だと教わります。

”花の色は”のは、花(フラワー)としての意味と、
美しかった自分としての意味がある、と。

学生時代、その話を聞いて「なんだそりゃ」と思ったのですよ。
この歌に「自分を美しいと知っている女の傲慢さ」を
感じてしまったのですよ。
金持ちが自分のセレブっぷりを語ったらいやったい、みたいな。
そりゃぁ、のちの世の人が「卒塔婆小町」なんていう、
老いさらばえて醜くなった小町の物語を作るさね、と。

後の世まで美しさが語られるような女性が、
そんな傲慢な歌をつくるかね?

この歌に傲慢さを感じる私の方がおかしいのかもしれませんが。

私はこの歌のを「若い恋人」と解釈するのが好きです。
すると、全然違った景色が見えてくるので。

現代に置き換えると、
「32歳のOLが、入社二年目の営業君といい感じになったんだけど、
”でも私年上だし”とか”からかわれてるだけかも…”とか
もやもやしているうちに、入社二年目の営業君のほうが、
彼女は本気ではないのだ、と考えて彼女のもとを去り
別の人と付き合いだす」みたいな。
そんな物語が見えてきませんか?

きませんか・・・
そうですか・・・

(古語辞典を引くと、花には「若い恋人」という意味もあると載ってたのよ)

とまぁ、自分はこのように勝手に解釈をするのが好きです。

でも、もし学校の授業中にこんな解釈を語ったところで
「それは違う」とか「テストなら×がつく」で終わってしまうんですよね。


そんなわけで「学校の勉強としての学問」は苦手ですが
「趣味として楽しむ学問」は大好きです。

この記事へのコメント

☆まがり★
2013年02月17日 15:54
歴史小説家の塩野七海先生が
「歴史学者は証拠が無ければ論ずることが
出来ないが我々小説家は想像することができる」
って言ったのに近いですな
拙者も世界史が好きなのは
当時に想いを馳せるのが好きだから
現代に置き換えるよりも
タイムスリップして過去に行ってしまったら
って想像が楽しい
後、現代にやってきてうまくやってけそうな
歴史上の偉人
アレクサンドロスとかユリウス・カエサル
織田信長源義経太公望ピヨートル大帝
この辺がなんかうまくやってけそうな
気がする
2013年02月25日 17:02
「歴史学者は証拠が無ければ論ずることが出来ないが、我々小説家は想像することができる」
いいですね~いい言葉ですね~

今も図書館で子供向けの漢詩の本を
読んでるんですけど、「自分なら
こう訳すのになぁ」とか思いながら
読んでます。(違う訳をつけたがるのは)天邪鬼なだせいかと思ってましたが、想像力が豊かだから、と前向きに考えることにします。

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